起きてみると今日は『日曜日』だった。これと言った予定はないので、俺は朝にも拘わらず寝ていることにした。
寝るつもりだったのに、知らず識らずのうちに眠りこけてしまったようだ。やっと起き上がって時計を見たが、すでに正午を過ぎていた。もう好い加減起きても良いだろう。外部から受けるはずの刺激を何一つ受けない状況にあまり長居し過ぎてしまうと、自分の人格が微妙に歪むような気さえし始める。何より『日曜日』の半分近くを眠って過ごしてしまうのはとっても勿体ないことのように思える。このまま一日眠り続けるわけにもいかない。無理矢理に散歩でもして、外気を浴びてみよう。
「『日曜日』は、休息日ではなく、仕事をしていてもしていなくても、時間はいつも同じように進んで行くということを人間に判然と認識させるために設定された、ある一つの制度である」
俺にしてみればほんのちょっとだけ哲学チックに聞こえなくもない独り言を自分の耳だけに聞かせるためにつぶやき、それをノートに認める。これは『日曜日』に限らず俺の毎日の日課となっている。俺は、朝起きてその日一日の行動を開始する前に、必ず、心の表層に立ち現れつつある概念を正確に言葉に出来るかどうか確かめるために一言か二言だけ抽象思考を行い、それを言語化することにしている。それが、このノートだ。朝だけでなく、抽象思考を行うたびに、俺はノートに自分の思考の道筋を書き表すことにしている。
「脳内に朧げな雲を形成した思考の殊更な言語化を試みた時、その思考は、言語化の試みによって、輪郭や細部を判然とさせることもあれば瓦解してしまうこともある。判然と立ち現れて来るものこそが本質的な真理に到達し得る本物の思考であり、瓦解して思考空間のどこへとも知れず溶解して消えてしまうのは偽物の思考である」
出入口のバルブを全開にして外に出た。今日もいつもと同様に、とても寒い一日になりそうだ。厚く厚く垂れ込めた雲に太陽光線が全く遮断されていて、シェルター内と同じか、それ以上に暗い。「抑止兵器」が聞いて呆れる、いや、隕石が衝突したのかも知れないが。どちらでも同じだ。今となっては真相は永遠に闇の中だ。
西暦1999年、7の月に、あの有名な予言者の著したあの有名な本のあの有名な一節の通り、それまでに人間が築き上げて来た文明は跡形もなく消え去った。
あれが起こる以前、俺は一人だけ準備をしていた。後ろ指を差され笑われながらも高額のシェルターを購入し、かなりの金額をかけて補強し、残りの財産をすべて一生かけても消費出来ない程の量の水と食料に変え、シェルターに運び込んだ。
7の月のあの日、俺は一人シェルターに入り、世界が崩壊して行く音を聞きながら震えていた。何日も経って各種のセンサーが何とか人間の生きられそうな値を示し、それで俺は意を決して外に出てみた。その時見た外の景色が、今日まで続いている。今は西暦2001年5月の筈だが、植物は全く芽吹く素振りさえ見せず、小鳥の囀りも全く聞こえない。ゴキブリさえ見ない。俺は、人類でいちばん最後まで生き残った一人になってしまったのである。
今日も世界は昨日と変わらぬ静謐を保ち続けている。死滅してしまった世界の中、俺は相変わらず一人で生きている。今日は『日曜日』だが、俺はいつもと変わり映えしない現実(さっき俺が勿体ないと思った『日曜日』に如何程の意味があろう!)を携え、散歩を終え帰宅した。
「現実――それが自分にとって如何に辛い現実であろうとも――を現実として認め、受容することこそが俺を正気で保ち続けるのだ。人類最後の一人として、俺は正気を放棄するわけにはいかない」
「彼ですか」
医師は、隔離病棟のとある一室の小さな窓から病室内を覗きながら聞いた。問題のその患者は、日課の徘徊を終え、つい先程病室に戻ったばかりであった。
「ええ、そうです」
病棟を案内していた医師は答えた。
「なんでも彼は『哲学者』なんだそうではありませんか」
「ええ。一度あなたも彼の日記をご覧になると良い。そりゃすごいですよ。彼は毎日日記を付けるのです」
「日記?」
「ええ。それが只の日記ではないのです。彼は彼を取り巻いている『現状』を憂え、自分の『正気』を保つために日記を付けているようなのですが、日記に記される彼の思考は、彼独特の世界観と彼なりの哲学に基づいてはいるものの、正気の人間のそれと殆ど変わりがないのです。彼の日記は、『病める精神が著す正常な哲学書』と言えるかもしれません」
「やはり彼も、自分を人類最後の生き残りだと考えているのですか」
「ええ、そうです。1999年終末症候群(※)のペイシェントは、治療スタッフの努力の甲斐もあって、とうとう彼だけになりました。彼が最後の一人なのです」
医師は感慨深げに言った。
「最後の一人、か。……気の毒に」
※1999年終末症候群
1999年7月に人類に終末が訪れると信じていたのだが、実際には何も起こらなかった為に、それまでの自分の行為の大部分を否定しなくてはならなくなった人達の多くが罹患した疾病。圧倒的な自閉がその特徴。日本国内でも1999人が罹患。
<了>
これだけは「習作」ではありません。
『SFマガジン』1999年2月号に掲載されたので、
たぶん歴とした「作品」です。 ( ^ o ^ )
|