はじめに
はじめに

 2001年3月30日、浄土真宗本願寺派「教学研究所」が主催して

 「教学シンポジウム「生死を問う」 ― 医療現場をめぐって ―」 が行われた。

 「脳死」やその周辺の先端医療と真宗とが今後どのように関係していくべきなのか、という問題について、参加者に正確な情報の増大を促し、併せて今後の指針ともなるような、そのようなことを念じてのシンポジウムであったらしいのだが、壇上にいた諸先生のうち、「脳死」その他の先端医療や、それを取りまいている生命倫理学的な情報を正確に把握していたのは、僅かに一名(早島氏)だけであったように、わたしには思えた。。

 ために、立花隆『脳死』三部作(中公文庫)、森岡正博『「脳死」の人』(法蔵館)、中島みち『脳死と臓器移植法』(文春新書)、本願寺『共にあゆむ』などなどの基本的な文献を一切読まずに「脳死」を語るとどういうことになるのか、それがはっきり浮き彫りになったわけである。「臓器の移植に関する法律」が制定されて3年が経つ現在、事実関係を把握せずに語っても、その語りに他者を動かす力が一切みなぎらないのは、当然である。

 端的に言って、シンポジウムとしての意義はまったくなかった。反面教師としては非常に有意義であったが。

 このシンポジウムの、何が、どのように問題であると私は考えるのか。
 それを指摘することで、このシンポジウムを昇華させたい。


2003年3月付記

 いままでは、以上のような、言ってみれば単なる「怒り」にまかせた「はじめに」やその他の亜分析ファイルを公開していたが、それはまったく建設的でないということに気づいたので、シンポジウムも、わたしの個人的な怒りも、どちらも昇華させるようなファイルを今回作り直すことにした。




教学シンポジウム
「生死を問う」
― 医療現場をめぐって ―

日時 : 平成13年3月30日(金)12:30〜17:15
会場 : 本願寺会館2階大ホール
    (京都市下京区堀川通正面下ル)
主催 : 浄土真宗教学研究所

 以下、そのレジュメと実際に語られた内容を紹介し、併せて、ほぼ逐一、その問題点を私(石田)なりに考察します。ご意見・ご感想・疑問などは、メールか掲示板、あるいは直接対面で伝えていただけると、非常にありがたいです。
 なお、私の見解は教学研究所のそれとは一切無関係です。このような文章を公開することに何か問題があると考える場合、あるいは実際に何か問題がある場合には、その旨を通知してください。私としては、公開されて良い情報は公開されるべきだと考えています。

 以下、プログラムに掲載されていた各氏の見解は引用して斜体 で、それに対する私の見解は 地の文で 示します。

もくじ (リンクしています。)

◇ごあいさつ  ◇基調講演(別ファイル)  ◇シンポジウム(別ファイル)


ごあいさつ
浄土真宗教学研究所長 大峯 顯
 ひとは何のために生き、死とは何かという問題は、人類の永遠のテーマであり、これに答えるところに真の宗教の役目があることは申すまでもありません。にもかかわらず、現代社会のいわゆる世俗化現象は、ともすれば、わたくしたちにこの大事な課題があるという事実を忘れさせる傾向にあります。

 「メメント・モリ」(死を忘れるな)が、原初から現在に至る、ホモ・サピエンスに特有の(実際ネアンデルタールにはそれがなかった。あっても、それは新人との交流経験を持つ群体に限られた、との研究がある)、問題であることは、古今東西の言語的活動から明らかであると言える。だから前半部分には全面的に賛同する。

 しかし宗教の役目がそれに答えることだというのには賛同できない。わたしには、答えようとすること・答えを探す手伝いをすることだと思える。

 「現代社会のいわゆる世俗化現象」という言葉が一体何を意味するのかは不明だ。わたしは、現代社会はそもそも世俗なのだろうと考えている。この言葉は同語反復であり、問題にならないモノを問題にしようとしているように思える。

 敢えて「世俗化」を問題にするならば、われわれ真宗やその周辺に立つ者たちにとって問題となるのは、同語反復の問題ではなく、真宗の世俗化という問題であり、世俗である現代社会とそれを内包しつつ内包されている真宗との関係性という問題であり、時に真宗を忘れた生きざまを見せてしまうわたしたち自身という問題だろう。


 しかしながら、急速に発達した科学技術にともなって出現した脳死、臓器移植その他種々の先端医療は、わたくしたちが改めて、「生とは何か死とは何か」という問題に直面せざるをえないようにしたと思われます。

 同感である。「脳死」の周辺に存在するさまざまな問題は、その人が「いのち」を一体どのような視点から見つめているのか、それを問うてくる。そしてそれに伴い、生命の深淵を見つめることを我々に要請する。

 ・・・・それらは我々をますます「メメント・モリ」に近づける。

 また、

 ・・・・それらの問題群をどう受け止め、どう解決していくべきなのか、問題はまさに山積している。


 日本でも1997年10月に脳死・臓器移植法が施行され、1999年2月から移植医療はすでにスタートしました。しかし、この新しい医療についての一般社会人の認識や関心は、まだまだうすいように思われます。宗教団体からの反対表明があったり、欧米に比べて我が国ではドナーがなかなか出にくいという事実はこれを物語っています。

 この文章からは、「新しい医療」がイコールで「最善の医療」と結びつけられているように感じられる。それは問題だろう。だが「一般社会人の認識や関心は、まだまだうすいように思われ」るという認識は、私と共通である。
 「脳死」への知識が不十分であり、また脳底体温療法やラザロ徴候の内容も知らずに「臓器提供意思表示カード」を入手し、政府とは関係のない非営利組織が実施しているキャンペーンのイメージだけを受容し、それをもとにして、「1.」から「3.」までのどれに○をするかを決定する人が多いこと、法的に「脳死」と判定された人の体にメスを入れると血圧が急上昇するため、麻酔術を施し、それから臓器摘出に進むことが多いという事実や、メスを入れられた「脳死」の人の体が時に激しく動くという事実、時に涙を流すという事実、乳児を近づけると時に激しく母乳を吹き出すという事実、etc. etc. ・・・・それら「脊髄反射」で片づけることが非常に困難な事態が「脳死」からの臓器摘出の場面では多数確認されているという事実。
 まことに、「脳死」周辺の問題への、「一般社会人の認識や関心は、まだまだうすいように思われ」る。

 よって、このクニでドナーが出にくいことと、「一般社会人の認識や関心は、まだまだうすいように思われ」ることとを単純に「原因と結果」で結びつける考え方に、わたしは馴染めない。

 はっきり言ってしまえば、「脳死」を脳の死だと単純に誤解している人が多く、その誤解がなかなか解かれないから、それでも「臓器提供意思表示カード」がこれだけ普及していると言えるのではないか。

 私は、大峯氏とは逆に、そのように考えている。


 そういう我が国の現状を思いますとき、何よりもまず、この医療に対する無用な先入見や偏見をはなれた正確な知識が必要ではないかと考えます。第二には、日頃から人間の生死の問題と専門的にとりくんでいる仏教者もしくは宗教家たちの明確で信頼すべき死生観の発言が必要でありましょう。

 「何よりもまず」には、まったく同感である。
 「第二には」は、どうだろう。

 わたしは一時期、本多勝一に、またある時期は小林よしのりに、そしてまたある時期は立花隆に心酔し、その思想に耽溺していた。
 心酔と耽溺、そしてそこからの目覚めを経験したわたしに言えるのは、他者のコトバを自分の思想に取り込むことは容易であり、ある思想を発した人間にまるごとのめり込んでしまうことはそれよりも更に容易である、ということである。たとえ信頼すべきコトバが見つかったとしても、そのコトバは絶えず疑われなければならないし、そのコトバを発した人間を思想的な全ての点で模倣したり、疑えなくなってしまったりするのは、非常に危険である。

 自分の頭で考える。

 これが非常に重要である。信頼すべき発言を疑うことが大切だと考える。


 このような考え方にもとづきまして今回は、それぞれの専門の立場から、この医療現場の問題にかかわっておられる医師、仏教学者、哲学者の方々をお招きして、率直な御見解をお聞きするシンポジウムを企画した次第です。会場の皆さま方には、どうか最後まで積極的に御協力くださいまして、この問題についての理解を深める機縁としていただきますようお願いいたします。

 問題を概観する努力を怠り、問題を理解していない人をいくら集めてこのようなモノを催しても、端的に言って、非常に無駄です。
 もちろん、反面教師としては非常に有意義な基調講演であり、シンポジウムでありました。

つづく

 このファイルに対するご意見・ご感想・疑問などは、石田宛にメールか掲示板、あるいは直接対面で伝えていただけると、非常にありがたいです。(差し支えがなければ、ご紹介させていただきます。)



各氏の意見
 新しい医療についての一般社会人の認識や関心は、まだまだうすいように思われます。宗教団体からの反対表明があったり、欧米に比べて我が国ではドナーがなかなか出にくいという事実はこれを物語っています。

 大峯師のあいさつ文ではこの点が一番問題であると考える。
 そもそも、脳死による臓器移植が日本において行われようとした時、

    臓器提供者良い人
    非臓器提供者悪い人

という世論が形成されていくことへの危惧があった。
大峯師はまさにこの危惧を今押し進めようとしている。

 私は師が臓器移植に賛成が悪いとは思っていない、ただ、このような挨拶文のなかに自分の論をこっそり紛れ込ませるような手口はとうてい同意できない。


棚原正智氏 【HP】
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